キリ番を踏んだときにもらったものです。
著作権がございますので
無断転載などした場合は容赦なく殺します。


作者 FirstZero



近藤美那は、殺意に目をギラつかせた。
殺意にまみれた視線の先には、冷たい瞳を向ける椎名順平の顔がある。
彼の顔は端正に整い、艶やかな短髪黒髪は清廉さを引き立てる。
誰もが近寄りやすく爽やかなイメージは、これからの椎名の言動と視線によって否定され
る―――いや、排除される!
「せいぜい見てろ! コイツの死に様を!」
椎名の口から、椎名のものとは思えない言葉が飛び出す!
美那の黒い瞳は、猫のそれのように広がって、ある一点だけを凝視した。
椎名の瞳を凝視した。凝視した。凝視した。睨みつけた。
その後、マグマのように煮えたぎった感情を爆発させて、美那は飛びかかった!

――――そして、愛する者を、この手で殺した。




「キャー、イヤー、ヤメテーーーッッ……」
美那は突飛なまでに甲高い悲鳴を上げた。
「ああ、ぁぁ、ぁぁ………わたし、わたし、……ひ、ひ、ひ、ひ、ひとを殺しちゃった」
身体の震えが声にまで伝わり、声ではない―――雑音。
美那は肩を抱きながらガタガタ震えていたが、歯をくいしばって自分の手を肩から引き剥
がす。
―――――あれ? 赤くない? さっきは、赤かったのに……
美那は顔を上げてみた。
そこに死人の顔はなく、見慣れた光景が沈黙を守ってただずんでいる。
出窓の向こうは青い空。
出窓から注ぎ込む優しい陽光。
陽光を反射する、均質な水面を思わせるガラステーブル。
テーブルの上には、昨晩から悪戦苦闘を強いられてきた、物理に化学に数学に――――と
にかく、教科書が山積みになっている。
あと、美那はベットからはみ出していた。
――――夢か?
美那は一息つく。
――――でも、なんであんなことを? 順平君? なんで?
と、困惑した表情が、苦悶にさえ変わろうとしたときだった。
泳いでいた視線が、一点に集束し、丹念に短針と長針の位置を確認する。
目を閉じて、開く。目を擦ってもう一度確認する。今度は手にとって確認する。
さっきと変わらない。これも夢? ……ではなさそうだ。
ヤバッ! おもいっきり遅刻だ! 
美那は跳ね起きた!



キーンコーンカーンコーン……
朝礼を告げるチャイムが耳に届く。
肩が上下するほどに荒荒しく息を乱し、紺のセーラー服の下は汗でひんやりするほどだっ
た。朝一からお疲れのご様子で、美那はクラスルームの扉をくぐった。
「美那。おはよ。今日はギリギリだね。今日の中間の為に猛勉強したの? ……美那に
限ってそんなことないわよねー? ……あ、分かった。変な夢でも見て眠れなかったんで
しょー?」
と、友人―――どっから見ても童っ子―――有本里沙が談笑をまじえながら話し掛けてき
たが、これがズバリ的中し、全くもって事実だから笑えない。
美那は表情を若干強張らせて、「おはよ」とだけ言うと、自分の席について辺りを見回し
た。
そして、視線をある人物――――椎名順平へと向ける。
顔立ちは端正で、艶やかな短髪黒髪は清廉さを引き立てる。飾りのような眼鏡は、知的な
存在を思わせる。夢で聞いたような嫌悪な言葉を吐きそうにない、温かそうなオーラが満
ちていた。
実際に椎名はあのようなことは言わない。―――いや、言う筈がない。
しかし、あれは何だったんだろうか?
先生が朝礼で、「学生はあーだ、こーだ」と言っていることには、目もくれず、耳も貸さ
ず。美那は椎名に魅せられたように見詰めていた。
そして、ふと振り向いた椎名と目が合ってしまった。しかし、会話と視線の雑踏の中で、
どうしてこうも調子良く目が合ってしまうのか? 少し疑問を感じた美那だったが、目が
合ったとたんにドキッ! とした。
椎名の目を直に見たのは初めてで、その澄みきった綺麗さがレンズを通して伝わってく
る。
「ん〜、なんか付いているかな?」
椎名は頬をポリポリと擦りながら、静かに尋ねた。
美那はふと気付いた。椎名は話せる程の距離にいた。今更ながら、自分の行動の不自然さ
を実感する……。
美那はパタパタと手を振って、「ううん。何でもないよ」今日の私はちょっと変だ……と
軽く流して顔を背けた。
里沙がクスリと笑っていた。
けれども、何もない筈がなかった。このときは全く分かりはしないが。




キーンコーンカーンコーン……
「起立! 礼! 着席!」
四限目の終了の合図。
今日の試験は、物理、化学、数学……と理系のフルコース。
何故か、通常の60分ではなく拡大版。おかげで、今日一日が試験つぶれてしまった。美
那は早々に「時間を返せ」と呟く里沙の声を聞いた。
また、流石に椎名も肩を凝らせ、着席したと同時に軽く溜息をついた。
委員長でも疲れるときは疲れる。超人ではない。人間だから。

……2−Aクラス委員長椎名順平の肩書きは伊達ではない。生徒・先生の評判は上々で、
学生の鏡のような人格の持ち主だ。
勿論、学力は目を見張るものがあり……化け物と言って差し支えなかった。そこいらの有
名私立の学生では歯が立たず、おまけに全国模試はいつもトップだったりする。
高校になってから部活動はしていないらしく、授業が終わればそそくさと帰宅してしま
う。けれども、噂では古武道をやっているや、その辺のゴロツキ数人を瞬殺したとか、
少々物騒な風を取り巻いているが、根は優しい奴だと美那は思う。
そんな椎名は、早々に鞄を筆入れにしまい、立ち上がろうとした。
……そのときだった! 
椎名の視界が軽くかすみ、椅子を軋ませながら腰を下ろした。
―――――眩暈? ……またか。
椎名はニ,三度首を軽く振った。
しかし、視界のかすみは一向におさまる気配を見せない。
それどころか、世界が遠く離れていくような感覚さえある。
―――――!!! お、落ちつけ! 
椎名は、冷静になろう、冷静になろう……とするが、状況は悪化の一方だ。
最初に見ていた光景が、針で突いてできた穴のように小さくなっていき、その周りが滲み
出すような闇に染まっていく。
…………一体、何が、僕の身に起こったんだ!?
椎名は、冷静な意識を保ったまま、昏倒した。



椎名が死んだように机の上へと崩れた。
「えっ……」
今日一日、これまでずっと椎名を眺めていた美那が、一早く察知した。
帰る間際になって、今から寝てしまうのはどう考えてもおかしい……。
美那は談笑しているクラスメート達の間を、目立たないように駆け抜けて、椎名の近くに
やってくる。
「椎名? 椎名? 大丈夫?」
美那は耳元で囁いた。けれども、ピクリとも動かない。
「椎名? し・い・な?」
美那が、ゆっくりと、愛撫するように椎名の背中を撫でてみる。
紺色の制服を通して、椎名の―――男の背中が伝わってきた。
そして、もう一度、椎名の耳元に顔を近づけた。
椎名の顔が迫ってくる。大きく見える。いつもより大きく見えた。
美那は椎名を見た。じっくり見た。たっぷり30秒、見た。
辺りのざわめきに気付かない程に、……見た。
その視線は、椎名を舐め回すようで、少し、ちょっぴりだけど恥かしいと思う。
そして、
「し・い・なぁ。お・き・て」
と、自分で驚いてしまう程に、溶けるような甘い声で囁いた。
美那は自分の肌が高揚するのが、容易に分かった。
何故か……すごく恥かしい。なんて声を出すんだろう? ……私は。
けれども、視線は椎名から離れようとはしなかった。
ぐぐっと吸い寄せられるような……そんな状態が続く。
その異常なまでに集束した視線の中で、椎名の身体がむくりと動いた。



―――――光が戻っている。
椎名は目を開いた。
臥している体勢から見えるのは、美那の顔だった。
美那の顔は、その名に恥じないぐらい綺麗だ。いつもは前髪と少し長めの黒髪が美貌を
覆ってしまって、周りの男共はこれに気付かない。勿論、椎名も例外ではなかった。
今、この事実に気付いた椎名であったが、ただ目を見開くばかりであった。
冷静に……ただ冷静に。
近藤美那を観察する。
……赤いな。
と内心呟く。
耳まで赤くして、近藤さんは何をしようとしたんだ?
椎名が頭を持ち上げ、「どうかした?」と言いかけようとしたところで、
美那はその場を急に立ちあがり、駆け出してしまった。
…………僕は彼女に何かしただろうか?
さっきのシチュエーションは、何だか……。
勝手な想像を膨らませながら、そのような事態を起こした記憶は露もない。
考えてもラチがあかず、泳がせておいた視線を自分の腕時計に視線を集める。
シルバー色でGainerと描かれた時計は、5時半を告げていた。
…………いつの間に? 僕が眩暈に襲われたのは試験が終ってからすぐ……の筈。
つまり、30分以上眠っていたことになるな……。
次第に、椎名は困惑の表情を浮かべていく。
……待てよ。この時間帯は、まだ掃除当番がいる筈だが。
椎名は立ち上がって周りを見渡す。
目に入る机と椅子は、気味が悪いぐらいに整えられ、掃除後の埃っぽい空気は、露ほども
残っていなかった。窓からは優しく淡い赤光が、板張りの部屋をほんのりと赤く染めてい
た。
――――不自然だ。
誰もいなかったみたいじゃないか? 生活感がまるでない……。
さっきまで、近藤さんが居たのにか?
椎名は中指で、眼鏡のフレームを持ち上げ、鞄を抱える。
そして、少し気味の悪く感じる教室を足早に出ようとした。

……そのときだった。
「よぉ。元気か? 椎名?」
背後から声が掛けられる。椎名が知っている限り、聞いたことのない声だった。
だが、背後にいる何者かが紡いだ声は、《椎名に会ったことがある》ことを伝えている。
椎名は振り返って声の主を見た。
そいつは、夕陽をバックにして、姿を暗がりの闇に潜めていた。
椎名は、闇を見据えながら、具に状況を読み取っていく……。
さっきまで人の気配なんてなかった教室。
……けれども、今はいる。窓は完全に閉まっている。もし、窓から入ってきたとしても、
ここは三階だ。それに、この教室は後校舎の端で、横の階段だから隣の部屋から伝ってく
ることはできない。
教室の出入り口は、二つ。前からは僕が出ようとしていた。後ろは僕が出ようとするまで
閉じていた。……人が開ければ音がするが、それもなかった。
椎名は目を細めて闇を見据えた。

「……お前は人間じゃないな」

何の前触れもなく、椎名は毅然と言い放った。



気が付けば、美那は交差点にいた。
電柱がニ、三本立っているだけの殺風景な交差点で、その周辺は雑草が覆い茂っている。
ここは美那が毎日登下校時に通っている道で、いつもは里沙と一緒に帰っているが、今日
はいない。自分が勝手に駆け出したので、仕様がないのだが……。
それにしても、この時間帯であれば、通勤帰りのサラリーマンや世代を同じくする学生や
らで、人通りは多い筈なのに、人影の1つも見当たらなかった。
とりあえず、近くにあった電柱に身を寄せ、背中をあずけ、美那は荒れた呼気を整え始め
た。
「私、どうしちゃったんだろう? 変な夢を見たり、さっきも変な声出しちゃって……」
脳裏に蘇る先刻の光景。
顔が赤くなる。赤くなってしまう。まるで、茹でタコみたいに……。
わーーー、どーしよーーー、てか恥ずいよーーー。椎名の前に立てないよーーー。
今更ながら、自分の行動がとても変であったことに気付いた。
何が、どうして、あんな行動をとらせてしまったのか……? 全く分からない。
謎だ。全くの謎だ。そう、ミステリアスゥ〜! 
自分が分からなくなったのって、生理のとき以来だ!
自分の頭の中で、先程までの自分が、全くの異物に思えて仕方がなかった。そんな自分に
恐怖に近い感情すら浮かびはしたが、ある事をふと思い出す。
「………………かばん……ない」
さっきは全力で駆けたのであった。鞄なんかがあったら邪魔で仕方がない。いや、寧ろ鞄
の存在なんて、サッパリ忘れていた。
それに里沙も置いてきてしまった……。
あのときは、気が気じゃなかったから……。里沙に何も言わずに飛び出しちゃったし…
…。やっぱり戻らないと……。
美那は急いで学校に引き返した。
美那の影だけが、黒く伸びて揺れていた。



「人じゃないか……言ってくれるね。それじゃ、これを見てもそう言えるかい?」
椎名が「人じゃない」と呼んだ者が、夕陽にその身をさらした。
短髪黒髪が清廉さを引き立てて、眼鏡は知的な存在を思わせる。
けれども、椎名が発するようなオーラはなく、眼光はナイフのように鋭かった。
しかし、椎名の前に現れた者もまた、椎名だった。
「どうでもいいが、僕に化けるなら、もっと上手くやってくれ」
変わらず、椎名は毅然と言い放つ。
僕がもう一人? そんな筈はない。現実にはありえないことだろ? これは夢か? 夢で
あるべきだ……。そうであれば――――
「合点がいくな」
もう一人の椎名が、口を開いた。
明らかに思考を読んだとしか思えない口ぶりだった。驚きを押し隠し、表情には何も出さ
ずに、椎名は口を斜めにする。
「君は、僕の前に現れてどうしようというのかな?」
静かに響く声に、動揺の色は混じらない。
「どうもしないさ。ただ、君に伝えたい事があってね」
椎名は眉をひそめ、「何をだ?」
もう一人の椎名の目が吊り上がった。
「君を殺して、僕が君になる……ということだ」
もう一人の椎名は声を押し殺しながら、地を蹴る。
椎名の顔面を目掛けて、一直線に拳の軌道を作り出した!
椎名は首をひねってそれをかわし、
「殺す? 僕をか? そんな茶番に付き合うつもりはない!」
と言い放ち、膝を相手の水落ちにめり込ませた!
「ぐふっ」ともう一人の椎名が息を噴き出す中、肘を背骨に突き立てる!
身体が一瞬だけ仰け反り、もう一人の椎名は床に臥した。
すかさず手首をとって、ひねり、次の一手を封じてしまう椎名。
「そうだな。まだ聞いてないことがある。……ここはどこだ?」
もう一人の椎名は、うっすらと笑みを浮かべ、
「ふふ。合点がいくと言っただろ? 夢なんだよ。ここはオレとオマエの」
……夢だと!?
思わず、椎名の手に力が込められる。
「うぐっ」と、もう一人の椎名が歯を見せながらうめくが、完全無視。
「夢だと言うなら、どうして僕を殺す? これは僕の夢なんだろ?」
「ああ、オマエの夢であり、オレの夢でもある。オマエはオレで。オレはオマエだ」
椎名はわずかに表情を曇らせて、
「いまいち理解出来ないね。僕は、僕一人ではないのか? もし、君の言葉を肯定するな
ら、僕の中にはもう一人の僕が存在することになる。つまり……」
「二重人格だ」
もう一人の椎名は、苦痛に表情を歪めながら呟いた。
「ほう。つまりは君が、僕を排除して人格を奪い取ろうというわけか。まぁ、現実に聞い
た多重人格説とは大きく異なってはいるけど……」
「確かにな。どんなに殺し合っても、自分を殺すには変わりねぇ」
「……気分がいいものではないな」
「そうだ。だから、共存しているように思われているのさ」
「しかし、君は僕を殺しにきた」
椎名は更に力を込めて、手首を内側にひねる。
「うきゅ」と訳の分からないうめきが聞こえるが、これまた完全無視。
「つまるところ、僕は多重人格者の中で、絶大な権力を誇っていることになる。僕が邪魔
で、他の人格が出れないってことだろ? もう一人の僕?」
「ヘへ。正解だ。なかなか頭が切れるじゃないか……。だが、これは二重人格だ。オレと
オマエのな……。オレとオマエしかいないんだ、勘違いするな」
と、声に罵声の響きが混じる。
椎名は目を細め、真直ぐにもう一人の自分の顔を見る。
視線の先にあるのは、確かに自分の顔だ。
けれども、何かが違う。
決定的に違う。
どこか、邪悪な、翳りが見えてくる。
「なら、こうしても構わないな。火の粉を振り払う……至極当然の事だろ?」

刹那、絶叫が校舎を震わせた。



美那は聞いた。何の音かは分からない。
けれども、犬の遠吠えでもないし、先生の怒鳴り声でもなかったのは確かだ。
不快感を覚えはしたが、間違いない……あれは人の声だ。
しかも、ただごとではない。と美那は思う。
美那は交差点から戻ってきた足で、クラスルームに向かった。
時間は遅過ぎるわけじゃないのに、人とすれ違うこともなく、グラウンドからも掛け声の
一つも聞こえない。今なら、女子たちが、ヒソヒソと教室の隅で密談をしていたっておか
しくないのに、人の気配が全くしなかった。
「里沙も帰ったのかなぁ」と呟きながら、美那は玄関を抜けて階段を駆け上がる。
窓から差し込む夕陽の光が、微弱になっていた。もうじき夜がやってくることを告げてい
る。
「えっと、三階っと。ここよね」
美那は自分のクラスルーム前で立ち止まる。
微弱な陽光しかないのに、部屋にはライトが灯っていなかった。
……誰もいないのかなぁ。
ここで、美那はふと思い出す。
……私が出て行くときって、椎名がいたよね。もしかして、さっきの声って、椎名!?
美那は悪寒めいたものを感じ、衝動的に歩を進めた。
そして、悲鳴を上げた。
視界に無理矢理に入ってきたものを見て悲鳴を上げた。
特に、白目むき出しの椎名の顔を見て悲鳴を上げた。
「あ、あ、あ、あ、……」
思わず後ずさり、重力に逆らうことなくストンと腰を落とす。
そして、尚、みみずのように地を這って後ずさり、背中に冷たいものが触れる。
同時に、足元に白目の椎名がどさりと転がる。
その白い目と美那の目が合った。合ってしまった。ビタリと合ってしまった。
向こうには、自分の姿は見えていまいが、こちらには暗がりの中の白が強烈に映える。
……白、しろ、シロ……目がシロい、シロイ……なに! ナニッ!?
美那は震えながら目が離せずにいた。特に根拠はなかったのだが、目を離せば襲ってくる
ような気がしてならなかったからだ。
「い、イヤ。コナイデ! オソワナイデ!」
と言ったつもりが、雑音。声にならない……。
その時だ。肩に固い感触が生まれる。所々が強めで、押さえつけられるような感
覚――――肩をがっしりと掴まれていた。
美那は悲鳴を上げるのを忘れた。
思考は停止寸前で、掴まれた肩を振り払うのすら忘れてしまった。
口をパクパクさせながら、
ニュッっと出てきた手の主は、椎名をこんな目に遭わせた奴で……だから……殺され
る!?……ころ、コロされる!?
と、切迫した緊張感がピークに達し、弾けそうになったときだった。
「大丈夫か?」
手の主が発する意外な言葉を聞くや否や、この世のものとは思えない絶叫を上げてしまっ
た。



「あう、あう、あう、あう、あう………」
あれから10分程経った。
口はバイブのように振動している。
今も心臓が早鐘を鳴らし続ける。
血脈が煮えたぎったように鼓動を打ちまくる。
……ドキドキが止まらない。ドキドキが止まらない。ドキドキが止まらない。
「えっと、そのなんだ……。説明は後にして、落ちついたかな?」
「落ちつくわけないでしょ!」
美那は優しく掛けられた声に噛みついた。
キッと椎名を睨んで、自分の見当違いな行動に気付いて、顔に火がつく。
「ゴ、ゴメン。怒鳴ったりして……。別に椎名は悪いわけじゃないよね。椎名は驚かせよ
うとしたんじゃないよね。ただ。ただ、偶然だったんだよね。そう、ぐーぜん……」
と、ぶつぶつ呟きながら、恐る恐る椎名に視線を戻す。
椎名は優しく微笑んでいた。オマエは仏か! と叫びたくなるぐらいに。
そして、美那はふと思い出した。
どうして、ぐーぜんで椎名が二人もいるのだろうか?
白目むき出しの椎名と微笑む椎名を、交互に見比べる。
全く同じ顔立ちで、全く同じ服装。身につけている時計も同じで、ここまで似せている必
要性が全く分からない。
美那が怪訝そうに首をかしげていると……、
「ここは僕の夢の中らしいんだ」
え! 夢! と呆気にとられる美那。
「夢なんだ。僕が僕に見せている夢なんだ。そして、ここに倒れているもう一人の僕も、
僕なんだ」
と、椎名はもう一人の自分を見下ろす。
つられて視線をもう一人の椎名に向けようとして、さっきの記憶が蘇る。
「おっと。見ない方がいい。またビビっちゃうぞ」
と悪戯っぽく笑みを浮かべ、美那の視界を優しくさえぎる。
「それでね、コイツが僕を襲ってきたんだよ」
えっ、なんで? と美那。
「僕の身体をのっとるために……。いや、僕の意識そのものを闇に葬ってしまうために…
…。だから、手首をひねって。やりすぎて。関節がはずれちゃったみたい」
えぇ! ホントに! それはお気の毒〜と美那。
「けど、心配は要らないよ。これは魂の抜け殻みたいなものだから……」
へぇ。そうなんだー。と納得「するわけないでしょ!」と美那。
「へ?」
目を点にする椎名。
「あ、ゴメンナサイ。話しは大体分かったわ。大体はね」
「そうかい……でも僕にはまだ不可解なことがあるんだ」
え? なに? と美那。
「ここが僕の夢であるにも関わらず、君がここにいることだよ。近藤さん」
椎名の視線が急速に密度を増して、美那の瞳に注ぎ込まれる。
澄んだ瞳が邪念を浄化するかの如く、瞳の力は強かった。
美那は、また鼓動が早まるのを感じた。
「推測の域にすぎないが、僕がこの夢に入る頃から、君はいた筈だ。だって、僕が目を覚
ます前から、君は僕の横にいたよね?」
美那はコクリと頷き、
「椎名がテストを終えた後に、急に机の上に倒れ込むから、どうしたんだろうと思って、
起こしにいったのよ。そしたら、椎名が起きて……」
「なるほど。確かに僕は意識を失っていた。それで君が起こしてくれた。そのとき、君は
何をしたんだい?」
美那は考えるフリをした。
考えなくたって、ハッキリとクッキリと思い出せる。あの強烈で鮮明な光景は、もう脳裏
から離れない。大人になっても忘れない。この先、どんなことがあっても忘れないだろう
……。
「ちょっと分かりにくかったかな? 君はどうやって僕を起こしたんだい?」
あぁ、やっぱりそれを聞くのね……。
鮮明で強烈な光景が、胸を締めつけていく。
……椎名は知らない。私が何をしたか知らない。……だから、
「えっと、背中を撫でて、耳元で『起きて』って」
!!! だから、なにって言うの! 自分の口から言ってしまってるじゃない!? 椎名は
知らないんだよ。だから、嘘をつけばいいのにぃ!
椎名はそれを聞き、押し黙り、美那の瞳の奥を覗き込むように、視線の密度を再度増し
た。
「えっとね、えっとね。『オキテ』って耳元で囁いたの。甘い声でね、エヘへ……」
あぁ、自分で何を言っているんだろう……と思う。
「あと、背中を撫で撫でしちゃったり……」
あぁ、もう死にたい…… と思う。
そして、美那はぐったりとうなだれた。激しく陰湿に尋問を受けた後のように、元気をな
くす。
―――――背中を撫でる? 耳元で囁く? 何か、これに原因が?
椎名は眼鏡の蒼白いフレームを中指で押し上げる。
……それだけで、夢に入れたとしたら、僕が夢界へトランスする途中の状態に触れてし
まったということか……。果たして、そんなことは可能だろうか? いいや、考えにく
い。椎名は、コンクリートをゴムで覆った床に落とした視線を、美那に戻した。
何故、近藤さんはここにいる?
ここは僕の夢だ。今、僕の夢を覗いているとしたら、現実に在る近藤さんはどうなる? 
いや、≪覗く≫と考えるから不自然なんだ。恐らくは、≪共有≫していると考える方が合
点がいく。
トランス過程で触れた彼女の意志そのものを、吸い込んでしまったんだ!
これは、重大なことだな……。
網膜に、うなだれた美那が滑り込んでくる。
「どうかしたのかい?」と肩に手をかけると、

近藤美那は顔を上げた。
自分の言葉を椎名はどのように受け取ったかは知らない。
ただ、自分はひどく恥かしいとだけ思う。
最も、もう顔は赤くならない。―――高揚なんてありえない。
何かがふっきれたよう……。
でも、目には涙が浮かんだ。瞳が純粋に潤んで艶めく。
夕陽が沈もうとする中で、仄かに黄色い電灯が灯り出す。
その明りに照らされて、輝く黄色い涙、目……そして瞳。
今まさに、涙が頬の海原を横切ろうとしていた。

椎名順平は瞳に刻んだ。
彼女がどうして涙を流すか知らない。
そんな彼女を目の前にして、ただ綺麗だと思う。
スポットライトに照らされる、華やかな女優―――いや、一国の王女。
身体が自然と動き、彼女を優しく抱き寄せた。
身体一杯に包み込んだ温かさが心地よく、甘い香りが鼻腔をくすぐる。

二人はそのままに……。



「ゴメンね。椎名」
あれから、何分経ったのだろう……?
美那は自分から身を引いた。流れた涙を拭い、優しいハッグを恋しいと思いながら。
椎名を見た、じっと見詰めた。
椎名も美那を見た。じっと見詰めた。
椎名の顔が高揚しながら、そっぽを向いてしまう。
「ありがと、椎名」
何故、お礼を言ったのかは分からない。
でも、言いたいと思った。だからそうしただけだった。
今は、これが、本当の意味での、素直な自分だと思った。―――いや、思えた。

「まぁ、そのくらいにしとけよ」

「えっ?」
辺りを見渡す美那。
疾うに夕陽が落ち、優しく淡い赤光は失われていた。
代わりに黄色いスポットライトが通路を点々と辿っている。
光はスポットライトしかなく、月の光は見当たらず、闇の支配の手が伸びていた。
「また、来たか。姿を見せたらどうかな? それとも闇打ちにするかい?」
椎名が光から逸れた闇に話しかける。椎名の視線は、闇色に一直線に進んでいる。
そして、美那はふと気付く。
最初に出くわした白い目をむき出したもう一人の椎名が消えてしまっていることに。
同時に、床が闇一色であることに。
そして、床から自分の身体い這いあがってくる闇に……!
……ココは学校じゃない! コレ、なに? なによ! ハナシテッテバ!
「さっさと出てこいよ。今度は逃がさない。君を倒して解放する。彼女も、そして全て
を」
椎名は気付かない。闇色に染まる美那に。声を上げようと必死に口を開く美那に。もがく
美那に。
「フフフ。その娘がよほど大事らしいな……。椎名順平……」
「!?」
声が背後から聞こえた。まさに美那のいた方向からだ。
椎名は美那を見た。つもりだった。
が、そこには美那はいなかった。
より深く、より暗い闇色が滲むように広がっている。
丁度、近藤美那の姿形を描いた闇だった。
「屋上に来い! そこでケリをつける」
せせら笑いを混じった声が、頭に直接響く。
同時に、スポットライトの光が強烈に勢いを増して、視界を白に染めた。
椎名はたまらずに瞼を閉じた。

再び目を開けば、先刻までの学校だった。
……奴は、屋上に来いと言ったな。
椎名は下唇を噛んで天井を睨みつけた。
「待ってろよ。すぐに行くから」
薄っすらと月明かりが照らす階段を、椎名は全力で駆け出した。



「暗い……ここはどこなの?」
「ここか? ヒヒ……。ここは、オマエの墓場さ」
「……墓場!? ここで私に『死ね』って言うの?」
「そうだな。オマエを殺して、アイツに亡骸を見せつける。……ククク。アイツはどんな
顔をして、オマエを見るんだろうな?」
「……あなた、最低ね」
「は? 最低? なにがだ? オレにも権利はあるだろ?」
「権利ですって!? あなたが、椎名の命や、私の命を奪う権利なんて、どこにあるって
言うの?」
「ハハハ……、オマエは無知だな。そうじゃないんだ。ここは夢だ。夢の中なんだよ。だ
から、現実の死とは直接は結びつかない、オマエはな。まぁ、意識そのものを殺すから、
昏睡状態から立ち直ることはないだろうがな……。しかし、アイツは違う。オレと入れ替
わるんだ。生まれてから、オレは、闇の世界で生きてきた。アイツは光だ。光に満たされ
て生きてきた。アイツは光をオレから奪い去り、表の世界へと顔を出している。……どう
してアイツにあって、オレにはないんだ! 表に出る権利がぁ! アイツが奪ったに決
まっている。アイツがな!」
陰鬱に響く声が途絶えるや否や、美那の視界に白が映る。
闇に浮かぶ白は、次第に集束を重ね、指を造り、手を造り、腕を造る。
「……あなたは、一体、誰なの?」
そして、顔が造られた。闇から腕と首が生えているように見える。
青白い瞳が、美那を捉えて、
「オレはもう一人の椎名だ。今のところはアバターと名乗っておく」
と、冷たく言い放つ。
美那は声が出なかった。眼前に姿を現した者―――アバターは確かに椎名の顔をしてい
た。
しかし、あまりに形相が違う。穏やかな椎名など、微塵にも感じさせない。
冷徹な雰囲気に、冷酷な笑み。全てが美那の知っている椎名と正反対。
――――そして、私はコイツに殺される!? 冗談ではない!
美那は歯を噛み締め、拳に力を込める。
アバターは、そんな鬼気迫る表情の美那を見て、ヘラヘラと笑っていた。
「嬢ちゃんよ。人間っていうのは、いつかは死ぬんだぜ? それが早いか、遅いかの違い
だろ? 早いと得か? 遅いと得か? へへへ。どちらでもありやしねぇ。実の所、これ
は運命なんだよ……。椎名と言う、一人の人物に関わってしまった、一人の女のな」
美那はキッと闇に浮かぶ白に鋭利な視線を突き立てた。
「私は、死なないわ」
ククク……と薄い笑いを浮かべ、「オマエが、死なない?」
「そうよ。死なないわ」
「バカか、オマエ。ココはオレの世界だ。オマエはチリだ! ゴミだ! カスだ! 何の
変哲の無い不穏因子なんだよ!」
薄い笑いが嘲笑に変わる。闇の中に、高らかに響く声。
美那は静かに聞いていた。下唇を白くなるぐらいに噛み締めて……。
そして、ただひたすらに、憎しみを膨らませて募らせて……。
同じ椎名の筈なのに……! どうして、こんなに違うの!?
「フハハハハハハ……」アバターが冷たい視線を向ける。
「それだ! その目だ! その黒く、闇に染めあげ、負の因子にまみれた目だ」
美那は構わず、瞳が大きくなったように見開いた。
「そうだよ。そんな目をしてくれると嬉しいぜ。……そんな目を見ながら殺していくの
が、何よりも快感なんだからな!」
アバターは白い指をパキパキと鳴らし、少し長めの犬歯をむき出しにして……
「死ね」
「この外道!」
美那は目を閉じて、叫んだ。覚悟を決めた瞬間だった。

―――――そのときだった。
視界が開け、光が流線を描いて一斉に注ぎ込む!
美那は自分が死んでしまったと思っていたが、アバターの焦燥の仮面から事態を読んだ。
―――――椎名が来た。
「よっ。待たせたな」
弾けた闇の向こう――――月明かりに照らされた学校の屋上で、美那、椎名、アバターの
三本の影が伸びている。
椎名の額にはうっすらと汗が浮かび、月明かりにそれを照らし出す。
「ここでケリをつけよう……。それまで、彼女に手を出すなよ!」
あまり表情が豊でない椎名に怒気がこもる。いや、普段は笑っているだけ……仏みたいな
奴。だから、美那は椎名の怒りを知らなかった。
「へっ。わかってるさ。……手は出さねぇ。フェアにいこうじゃないか……」
薄い笑いを浮かべ、「コイツがいない世界でな!」と、目を吊り上げる!
美那はつくづく思う―――コイツはどーしよーのないクズだ。
「ヤメロッ」と叫んで、椎名が猛進する。
けれども間に合う筈がない。校舎の屋上の端から端……間に合う筈が。
――――私は死にたくない。
――――こんな椎名に殺されたくない。
――――だから、死ねない!
美那は咄嗟に身を投げ、床に転がった。
刹那、先刻まで美那がへたり込んでいた床に、白い手刀が刺さる。
嫌なほど、キレイに刺さった。音すらせずに刺さっている。
「逃げてんじゃねぇよ」
と、白い顔が不気味に笑い、白い手が美那の視線を追うようにして、伸びて
―――鈍い音が弾けた!
椎名の拳がアバターの白いこめかみに飛来したのだ!
その衝撃で吹き飛ぶアバター。地に顔を擦りつけて、数メートル進んで止まる。
「ったく……。何がフェアだっ!」
額に大粒の汗が光っていた。肩が上下するほどに乱れた息遣いから、毒を吐く。
「君はここから逃げるんだ! 僕が来……!」
椎名の言葉が詰まってしまう。美那は、椎名の驚愕に染まる瞳の先を見た。
……扉が無い!
先程、椎名がやって来た扉が、跡形も無く消えていた。そこはぼんやりと月明かりが照ら
すだけになっている………ただの床。
「へっ。これで逃げは無しだぜ」キヒヒと奇妙な声音を響かせ、
「ここで、二人とも、嬲り殺しだ!」
アバターは大きく目を見開く。瞳の周りの血管が浮き立つのが、この暗い月夜でも鮮明に
見えた。
美那は戦慄が走るのを覚え、本能的に後ずさった。
嫌……なのだ。アバターの発する気配―――ただ、闇色に埋もれてきただけの負の感情。
今、三人の立つ空間を明らかに締めつけるのは、それ。
「君は、手を出すな……。危険すぎる」
アバターから視線を外さずに、声を押し出す椎名。
声色がいつもより、固い……本当は―――――
「わかったよ、椎名! 負けるな!」
と精一杯叫んだ声は、アバターの吠える声にかき消された!

「GO HELL!」

ミシリッと床を唸らせて、突進するアバター!
異常に見開かれた目は、自分の憎悪の集合体――――椎名を捉えていた。
椎名は思う。
自分を自分で殺すとは、一体どういうことだろうか?
そんなことは考えてもどうしようもないのだが……。これは、自殺なんかじゃない。
安直に考えるなら、我が生きるために相手を殺す――――最も原始的な生物が生きるため
の、最も簡潔な手段。
椎名は迫る白を見た。双眸に捉えた白は、鬼だった。
鬼は椎名目掛けて加速する。
稲妻のように加速した腕が、空間を軋ませ割っていく。
椎名は、白い腕がかすめる寸前で、半回転し、自身を軌道から外す。
そのまま、鬼の後方をとって、後頭部にエルボスマッシュ!
が、鬼は前のめりに踏ん張るところか、何事もなかったかのようにピクリと動かない。
危疑に投じて、椎名は振り返り――――刹那、視界が白で埋まった!
椎名は衝撃の緩和を求めて、反射的に地を蹴って後に逃げる。
が、ほんの少しだけかすった。ただそれだけだ。
ただそれだけの筈が、椎名の肌を引き裂いて、赤が弾けて闇に踊り出す。
「ぐあっ」とうめく椎名に、更に衝撃が全身を駆け抜けて、数メートル先まで飛んだ。
幸い、痛みで意識は途絶えず、身体を反らして四つん這いに地に戻る……。打ちつける脚
が熱を帯び、地に立った腕が赤にまみれた。赤が地を塗りたぐる光景が、視界を蹂躙して
いく。
――――かすっただけだぞ?
椎名は鬼に視線を戻す。鬼は凄惨な笑みを浮かべ、確実に距離を詰めてくる。
椎名は絶体絶命を予感したが、自分が冷静に鬼を見ていることに気付く。
――――奴は鬼か? 違う……
椎名は確認する。
――――鬼は同じだ。自分と同じ。同じ身体。同じ目………全てが同じ。何が違うんだ?
 内包する力か? それも同じだとすれば……力の形!?
目まぐるしく行き交う思考。
迫り来る鬼。
「なに、ボサッとしてんだ! テメェはその程度だったのかよ!」
怒気のこもった声が、何も覆っていない空間で反響し、うねりを上げた!
刹那に鬼の右腕が変容していく……。
急速に指が膨れあがり、人の骨格を無視して手が拡大する。
手の白貌が黒ずさみ、鋭い爪が月明かりに照らされて、不気味に艶めいていた。
そして、身にまとっていた制服の右腕部が弾け飛び、漆黒の巨手が露になる。
椎名は怯えずに直視した。
鬼の手を――――力の形を……。
月明かりに照らされて、尚も黒々と混沌。まるでそこには光が届かないように……光が存
在しないかのように……。
椎名は思う。
――――鬼の力の形は闇。鬼が住む世界は、いつも光が見えなかった世界―――闇だ。
鬼は何故そこにいなければならなかったか? それは僕が光を閉ざしてしまったからだ。
いや、奪ってしまったんだ。そして、閉め出したんだ……。
「うおぉぉぉぉぉぉぉぉぉお………………」
猛々しく鬼は吼えた。衝撃の波紋が空間を揺らして椎名を圧迫する。
椎名は思う。
閉め出したからには力が在った筈だ。闇を拒絶する力――――闇に相反し、闇そのものを
断ち切ってしまう力――――分離してしまう力―――
鬼が視界からふっと消える。けれども、椎名は知っていた。鬼が背をとることを……。
動きが見えていなくとも分かってしまう。鬼が残した瘴気の余韻で……。
鬼は、鬼気を漲らせた形相で、具現化した漆黒の夜を、小さな椎名に突き立てた!
椎名は思う。
――――それは、光だ。
刹那に足場が消滅する。埃が舞いあがり、視界を完全に覆い尽くす。鬼の手一振りで障壁
は吹き飛び、床にはポッカリと闇の口が開いていた。
しかし、手応えの無さに、鬼は狂気に満ちた笑みを浮かべた。
「これから……とうわけだな、椎名」
「その通りだ。あまりにハンデが有りすぎて、面白くなかっただろ? もう一人の僕?」
鬼は声の主に視線を送る。眩しい発光体が闇夜に浮かんでいた。
「さて、これからどうするかだが……勿論、こうする」
冷静な声が途切れるや否や、閃光が迸る!
眼が追いつくには無理のある速さ――――光速。椎名は確かにそれで、闇色の皮膚を引き
裂いた!
静寂の中で、固形物が弾け飛ぶ音が、鼓膜を揺らした。
椎名は見た。鬼の目を見た。恐怖に歪みもせず、その眼光は狂気と憎悪にまみれていた。
自分が自分に対して向けた殺意。鬼はそれが具現化したのだろう……。
椎名は哀れんだ。鬼を。そして、自分自身を。
他人に分けられた優しさが、自分自身に分けられないことを悔やんだ。そして、自分を戒
めた。
椎名は光を具現化させると、自らの身体を造りだし、鬼の頭を鷲掴みにして、夜の闇へと
放り投げる。抵抗をする間を与えずに、空に浮いた白い身体――――白いはらわたを光撃
一閃で打ちぬいた!

――――――絶叫が、孤独な月に語りかけた。



美那は聞いた。音を聞いた。奇声としかとれない気味の悪い声。
何が起こっているのか全く分からず、じっと固まっていることしかできない自分。動けな
い自分。何もしてやれない自分……。無力過ぎた自分。
さっきの音で、身体をビクリと震わせて、顔を上げることをためらった。
ためらって、ためらって……、でも信じたかった。椎名が立っていることを。
―――――美那は目を開く。
自分の傍で息をする者がいる。それが分かる。空間を震わせて伝わる呼気。凄くしんどそ
うで、辛そうで、何かを求めていそうな息遣い……。
―――――美那は顔を上げた。
月明かりに映える白い肌。
大きく見開かれた目が、美那を睨みつけていた。
腹部が奇妙に変形し、向こうの風景が見えている。右腕部はなくなっていた。月の弱い光
が、白い足元に作る血溜まりを黒く映し出している。
―――――美那は顔を引きつらせた。
はっきりと「恐い」と言える。思える。でも、叫べない。
睨みつけた視線が、美那の自由を奪い、指一本すら動かせなかった。
アバターに表情は無かった。
細い左手が動き、筋肉が繋がって隆起するのが、鮮明に網膜に焼きつく。
白い顔が口を斜めにし、「死ね」と呟いた。



椎名は地を蹴った。
――――間に合うか? アイツは致命傷を負ったが……
だが、現実は椎名を否定する。拒む。拒絶する。
力を吐き出した椎名の目の前に、あの鬼が映った。
鬼は立っている。その身体に風穴を開けつつも、尚立っている。しかも、美那の前にだ。
吹き飛んだ鬼が、偶然にも美那のところに飛んでしまうとは……。
――――間に合わない!? ――――畜生!
高らかに白い腕が持ち上がる!
数刻の時に、確実に美那の命は奪われる!
それだけは、ヤメテクレ!
椎名は悲痛に叫んだ! 声には出ない―――声なき声。
椎名は息をするのも忘れて駆けた。
美那を守るために。自分の命と引き換えに……。
彼女が生きててくれればいい。それでいい。
……という思いだけが、爆発的に加速した!



美那の目に赤が映る。
おびただしい……赤。
昏倒してしまいそうな量。
美那の意識を破壊するのに充分な光景。
美那の目に、うっすらと涙が浮かんだ。
―――――私は死んでいない。
美那の前には、美那を庇う椎名がいた。
椎名の背中から、赤にまみれた白い腕が生えているのが見える。
おびただしい赤が、指先から垂れて、床を赤く塗っていく。
けれども、その赤は美那には一滴も及んではいなかった。
「……椎名」
美那の頬を、熱いものが流れた。
「……ゴメンな。ミナ」
弱弱しい声が、苦しそうな嗚咽に混じって美那に届く。
自分の名前を初めて呼んでくれた―――――ただ、嬉しい。
嬉しかった。いつも「近藤さん」と呼んだ椎名が、こんなに近しい存在になるなんて……
美那は思いもしていなかった。
美那は椎名を見た。
椎名の横顔が静かに笑っていた。
いつも見せてくれる穏やかな笑み。仏のような温かな笑み。
涙が止まらなかった。あとから、あとから流れていく……。美那は拭うことも忘れてしま
い、椎名の横顔に魅せられたように見入った。
――――――椎名? 死んじゃうの?
嗚咽がこみあげる。もう見ているのも辛かった。好きな人が死に逝く様を……。
「そろそろ、いいか……」
アバターが静かに言葉を漏らした。
刹那に椎名が視界から消え、遠方へと飛んで小さくなる。
アバターが椎名を投げ飛ばしたことに気付くのに、たっぷり30秒かかった。
アバターは美那には目もくれず、重い足取りで椎名の方へ歩みを進める。
―――――まだ、ヤル気なの!?
美那は熱くなった。身体の奥から湧き出してくる思いが、全身を駆け巡る。
「あんた、最低よ! 自分のために、自分のために人を殺すなんて! ……どうして奪う
ことしか、自分を見出せないの?」
アバターの白い顔が美那に向く。凍りのような冷たい視線が、美那を射抜く。
「ハン。オマエに何が分かる? オマエは結局のところ、椎名のことを何も知っちゃい
ねぇ」
「知らないわ! けれど、けれど……」
「けれど、何だって言うんだ? 椎名という人間はオマエにとって、何だっていうんだ?
 オレは外の世界を知らねぇから、コイツがどんな奴で、どんな行いをしていて……勿
論、オマエとコイツの関係も知らねぇよ! けどな……んなことはどうだっていいんだ
よ。オレはコイツを殺して表に出たいんだよ……。
そ れ で 何 が 悪 い ん だ !」
牙に近い犬歯を剥き出しにするアバター。
「あなたが表に出たって、ろくなことは待っていないわ」静かに言葉を並べていく。「あ
んたのような、憎悪の塊みたいなのが、私が住む世界で生きていけるほど、皆温厚じゃな
いの! 人間という集団は、危険と見なしてしまえば……」
「危険だからなんだ?」ピクリと黒い眉が跳ねあがる。「そいつらはオレに向かってくる
んだろ? オレを殺しにくるんだろ? あぁ、構わないさ。好きにすればいいさ! オレ
は殺してやる! 殺してやるよ! ……そんな奴ら!」
アバターは目に狂気の光を輝かせ、鋭利な声を響かせる。
「あんた、何もわかっていないわ。あんたの夢の中じゃないのよ! 現実で、ただ単に殺
していればいいと思うの?」
自分の鼓動が伝わる。とてもつもなく速い……どっくんどっくん……今まで聞いたことの
無い――――感じたことの無い、速さ。身体には、ビリビリと電撃が走るような緊張感が
生まれる。
「あぁ、殺してやるさ! ぜんぶだ! 全員皆殺しだ!」
全くもって、話しの通じない奴だ……。
「振りかかる火の粉を払い落とす――――至極当然の事だ」
本当にどうしたらいいのだろうか? コイツは世界を滅ぼすと言っている。
「しかし、オマエは面倒臭い奴だ。ヤツの死に様を見て、泣いてろ!」
―――――コイツを進ませてはいけない。絶対に。
沈黙を守る美那を、アバターはせせら笑う。
「時間の無駄だな。オマエが何を言おうと、オレはヤツを殺す」
美那は口を閉ざしたまま、白い狂鬼を見据えた。
美那の反応が面白くないのか……鬼は眉をひそめる。
「オマエには礼を言わなくてはいけないな」
「?」美那に困惑の表情が浮かぶ。
「オマエは生かしてここから出してやる。そして、見せてやろう。オマエの近しい存在
が、オマエの住む世界で繋がりある存在が、消し飛んでいく様を」
美那の表情が濁り、
「そのとき、オマエはどんな顔をするんだろうな?」
小刻みに身体が震える。
「まぁ、その後にオマエも一緒に送ってやるよ。だから、感謝しろよ。オレに。人生で二
度とはこない破滅のエピソードの主人公になれるんだからな……。但し、活躍は無しだ」
アバターは残酷な嘲笑を夜の闇に響かせて、重い足取りで歩を進める。
美那の赤い視界の中で、白い背中が小さくなっていく。
美那は熱い吐息をこぼし、凝視する。
「まずはコイツからだ! オマエの近しい存在第一号だ!」
赤い視界の中で、白い鬼が、虫の息の椎名を見下ろしていた。
すでに、椎名に力は無いだろう……。見るからに、憔悴しきった表情を浮かべ、身体をピ
クリとも動かさない。もはや、抵抗の余地は無いのだ……。
白い鬼が少女を一瞥する。
「せいぜい見てろ! コイツの死に様を!」
椎名の顔をした鬼は、椎名が血迷っても吐かない言葉を叫ぶ!
そう―――――コイツは椎名じゃない。
私の知っている椎名は、こんなことを言わない!
美那の黒い瞳は、猫のそれのように広がって、ある一点を凝視した。
椎名の―――――椎名ではない椎名の瞳を凝視した!
凝視した! 凝視した! 睨みつけた!
身体の奥で熱い思いが湧き上がる。徐々に煮詰められた思いが、すぐそこにまで迫り来
た!
―――――体が熱い……。熱くてたまらない!
赤い視界の中で、動く白い腕。その白が動く時、
美那はマグマのように煮えたぎった感情を爆発させた!



さぁ?
自分の身に何があったかは知らない。
次に目を開くとき、美那は白い背中に自分の腕が埋まっているのが見えた。
刺さり口は、赤い血が噴き出そうと奇妙な音をたてていた。
いつもなら失神してしまいそうな光景を、美那はひどく冷静に見ていた。
椎名に伸びようとした白い手は、今しがた、ダラリと伸びて力を失った。
白い身体は、ビクビクと痙攣を起こし、それを自分の細い腕に伝えていた。
――――決して気持ちのいいものではない。
「オ、……オマ、エ」
ゴポリと口から吹き出る息を、血が邪魔をする。
しかし、ひどく冷静な意識は音を捉えようとしなかった。
もっと、別のところへ意識は注がれていた。背中に埋まった腕の先――――目には見えな
いけど確かにある感触。
美那は握っている。
深紅の血液が絶えることなく運び出される臓器を――――心臓を――――コイツの命を。
生温かい赤が、腕に絡みつく感覚を覚え、すぐにでも引き抜きたい。
けれども、手の中で規則正しく動く物体を離すことに惜しい気がした。
―――――握り潰したらどうなるだろうか?
冷静な思考は、あまりに残酷だった。
美那の腕に力が込められ、温かい心臓は破裂した!
刹那に、刺し口から血が溢れだし、自身をも血で汚した。



―――――――近藤美那は、愛する者をこの手で殺した。



「ねぇ……ねぇってば! 美那ったらいつまで寝てるのよっ!」
美那は里沙の声に目を覚ました。
眼前には、「もう呆れた」と言わんばかりの里沙の顔が切迫していた。
ただ、童顔の彼女がそうしたところで、迫力はないのだが……。
「だけどさあ、なんでこんなところで寝てるわけ?」
美那は目を細めて、辺りを見回した。
空が暗くなる丁度手前ぐらいの、夕陽がやんわりと差し込教室だった。
他の女子たちが数人集まって密談している。
窓の外からは、部活動に励んでいる活気に満ち溢れた声が響いていた。
「聞いてる?」
里沙が、美那の顔を覗き込んだ。
「なんで、一人で……? しかも、椎名の席だよ。ここ」
美那は突然立ち上がった。
―――――一人? 私一人だけだったの?
美那は何かを探すような目で、視線を辺りに漂わせる。
「わっ! どうしたの? 美那?」
「椎名は! 椎名は! 椎名はどこに行ったの?」
里沙は目を丸くし、クスリと笑う。
密談中の女子達の視線が美那に集まり、次第に散っていく。
「椎名はさっき帰ったよ。『美那にありがとうって伝えてくれ』だってさ」
美那は安堵の胸をなでおろした。
……そっか。椎名は、椎名のままで生きてるんだ。
「それよりさぁ」
里沙が目を細めて、肩をつつく。
「椎名と何かあったのかなぁ。あんなに親密な椎名は初めて見たわよー。コラ! 何しか
たか言ってみなさい! お姉ちゃんが聞いてあげるから」
「ええ! いいよ、いいよ。絶対に信じないからー」
美那は頬を高揚させながら駆け出した。
勿論、鞄を持って。
その後を里沙が追う。
「コラ! 待て! 今日は聞くまで、離さないんだからー」



二人の動向を見届けてから、「ふー」と息を吐いた。
左目は白い瞳。
右目は黒い瞳。
……二色の瞳を持った少年だった。
顔立ちは端正で、艶やかな短髪黒髪は清廉さを引き立てる。
「もう一人の僕……、君はもう一人じゃないぜ。ずっと見ていよう。光ってやつをさ…
…」
椎名順平はゆっくりと歩き出した。


---------Fin-----------